ピェール・ミショーが、修理のために持ち込まれたドライジーネの前輪にペダルを取り付けることを思いついたのは、1861年(文久1)年のことであったと言われている。ここでは、ミショー一家やその関係者が製作したモデルをミショー車と呼び、前輪にペダルが付いているモデルの総称として、ミショー型という言葉を使用することにする。ミショー型がフランスを始めとする欧米で普及し流行したのは、幕末の1867年(慶応3)年から明治維新が始まった1869(明治2)年にかけてのことである。 オリヴィエ兄弟とジョルジュ・ド・ラ・ブーグリーズとの3名がミショー車によるパリ~アビニョン間(約746km)のサイクルツーリングを行ったのは、1865年(慶応1)年で、同車が普及し始めた年よりも2年も前のことである(写真1)。
写真1.現代の地図に記したオリヴィエ兄弟によるパリからアビニョンまでの旅行コース(約746km)
オリヴィエ兄弟は2人ともリヨンの生まれで、エメ・オリヴィエ(写真2)は、1840年7月10日に、ルネ・オリヴィエ(写真3)は、1843年12月12日に生まれた。オリヴィエ兄弟には、マリウス(1839年生まれ)という長男と3人の姉妹があった。男の3人兄弟は、ドミニク派が経営するウーラン(リヨン南郊外)の小学校に通った。その後、リヨン市内のラ・マルティニエール中学校に通学した。 エメは、その後パリに行き、サン・ルイ高校に入学した。エメは、1860年に理科系のバカロレアを取得した翌年に、仏帝国芸術製造中央校(現在は、エコール・セントラルと呼ばれるているが、エンジニアを養成する超エリート校、いわゆるグランゼコールの一つ)に入学した。マリウスも2年前に同じコースを辿った。ルネは、1861年に理科系のバカロレアを取得した後、仏帝国芸術製造中央校の受験準備のために、デュビノー予備校に通った。ルネの場合には、兄達ほど簡単ではなかったが、最終的には合格した。その理由としては、オリヴィエ家の親族が、帝国芸術製造中央校の創設メンバーになっているからだといわれている。それでも、卒業試験では、134人中で100位になった。なお、マリウスとエメは、同様のランキングで、それぞれ79位と88位であった。 オリヴィエ兄弟は、エコール・セントラルの在校時から既に、まだまだ当時目新しかったミショー車のファンになり、よくミショーのアトリエに通い、それだけでなく、マシーンの改良に大変関心を持っていたということがわかっている。それは、兄のエメが、1863(文久3)年-1864年(元治1)年度の宿題帳に、木製スポークの軽量化に関する数式とデッサンを残しているからである。この宿題帳は現在、仏カルバドス県立公文書館に保管されている『オリヴィエ・ド・サンデルバル』コレクションの一部として保存されている。オリヴィエ兄弟と同じ学校(エコール・セントラル)を出たルイ・ロッケールが書いた『ル・ヴェロシペード』(1896年出版)によると、『学校が終わると同時に、オリヴィエ兄弟は、それらのスケッチ画を持って、ミショーのアトリエに向かい、ミショー父子(ピェールとエルネスト)とあーでもない、こうでもない、と議論を戦わせた』という。 ジョルジュ・ド・ラ・ブーグリーズが、オリヴィエ兄弟の親友であったということは、同兄弟の父親であるジュール・オリヴィエの日記帳から覗うことができる:『1866年(慶応2)年11月10日。ロズレイ(現ル・ポンテ市、アビニョンの北郊外にある)。ド・ラ・ブーグリーズはニースから帰ってくる。』翌日にはこうも書かれている:『11月11日。エメ、ルネ、ド・ラ・ブーグリーズの3人は、アビニョンを出発する。』ド・ラ・ブーグリーズは、1842年4月25日に、旧セーヌ県のオートィユ(現在はパリ市の一部となっている)で生まれ、パリの仏帝国鉱山校(エコール・デ・ミンヌと呼ばれているが、エンジニアを養成する超エリート校、いわゆるグランゼコールの一つ)出身である(写真4)。
写真4.ジョルジュ・ド・ラ・ブーグリーズ。 ミショー車に関わった後、1870年の普仏戦争後は、カリフォルニア(USA)に渡り、金鉱の発掘技師として活躍した。この写真はその当時のもで、ド・ラ・ブーグリーズ家所蔵。
写真5.オリヴィエ兄弟によるパリからアビニョンまでの旅行コース。赤線のコースはもう一つの案を示している。仏カルバドス県立公文書館が保管する
ジュール・オリヴィエは単にオリヴィエ兄弟の父親であるというだけでなく、彼の日記帳は、パリ~アビニョンに関して現存している数少ない資料の一つでもある。ジュール・オリヴィエは大変几帳面で、全ての出来事をこの日記帳に書きとめた。現在この日記帳は、オリヴィエ兄弟の長男であるマリウス・オリヴィエの孫にあたるドミニック・オリヴィエ氏が所蔵している。ジュール・オリヴィエは、1804年にリヨンで生まれている。1857年以来、化学製品の製造業者として、ロズレイにある化学工場を経営していた。リヨンの同業者であったクロード・ペレ(1789-1860)の娘である、ソフィ・ペレと結婚している。 オリヴィエ兄弟は、ミショー車の例でもわかるように、メカ好きであったが、同時にスポーツも大好きであった。冬にはブーローニュの森でスケートを、夏には海でのスポーツを楽しんだ。又、1863(文久3)年には、レース用のボートを漕ぎながら、フランス縦断の旅も行っている。セーヌ河を上り、ブルゴーニュ運河を下り、ソーヌ河とローヌ河を下っての長旅であった。そしてその2年後に同じようなコースをミショー車での走破に挑戦したのであった。 ただ、このパリ~アビニョンに関する正確なコースと日程等は、現時点では残念ながら、まだはっきりとはわかっていない。オリヴィエ兄弟やド・ラ・ブーグリーズによる旅行記等の一次資料が全く残っていないためである。上述の『オリヴィエ・ド・サンデルバル』コレクションには、オリヴィエ兄弟が作成したと思われる旅行コース図(案)が含まれている(写真5)。これによると、主な通過都市は、次のとおりである:フォンテーヌブロー、モンタルジ、ヌヴェール(ニエーブル県の県丁所在地)、ムーラン、ロアンヌ、リヨン、チュラン(仏南部グルノーブルから北西に約15kmにある小都市)、ヴァランス、モンテリマール。このコース図上に、10ヶ所程度の通過都市名の頭にバツ印がつけられている。それらの町で宿泊を予定していたのではないかと想像できるが、今のところ断言はできない。 このコースを3名のサイクリストが走破したということは、ジュール・オリヴィエの日記帳に記されている:『1865(慶応1)年8月1日。ユリアージュ(グルノーブルから東南に約10kmにある温泉町)。エメはミュルーズ、タンそしてパリに向けて出発する。それは、パリからチュランまで、ヴェロシペード[ミショー車]で行くためである。』更に、通過都市で発行されていた当時のローカル紙もその旅行に触れている。1868(明治1)年5月28日付けのジュルナル・ドゥ・ラ・ニエーブル紙によれば、『2年程前に、3人のヴェロシペディストが、パリからヌヴェールまでを(約200km)、わずか2日で走破した』とある(写真6)。この記事では『2年程前に』となっているが、より正確には『3年程前に』と書かれるべきであった。1867(慶応3)年12月18日付けのクーリエ・ド・ラ・ドローム紙によれば、オリヴィエ兄弟はヴァランスも確かに通過している。上記の日記帳のちょうど1ヶ月後には次のように記されている:『1865年9月1日。ルネとエメはチュランからヴェロシペードに乗って来た。』これらの資料からすぐにわかることは、ド・ラ・ブーグリーズは間違いなく、ヌヴェールまでは同行したが、チュランに着く前に離脱した、ということである。 リヨンはオリヴィエ兄弟の出身地なので、親族や友達が多いであろうと予想されるし、アヴィニョンには父親がいるので、別に不思議ではないが、チュランを通過したとなると、かなりの遠回りといえる。この疑問に対して、最初に答えてくれたのは、1868年にマルセーユで発行された、ファーブル著『ル・ヴェロシペード』である:『チュランは、[私が住んでいる]ヴォアロンから12kmのところにあり、イゼール県で最も素敵な町である。私はその町で、ちょうど1年前[1866年の終わりか1867年の初め]に、50才前後の男性を初めて目撃した。この男性は、ヴォアロンからチュランに行く道路を、ものすごいスピードで、しかも安定した姿勢で、走っていたのである。後に知ったことであるが、その乗り物の持ち主であるペレ氏は、いろいろと改良を加え、それに乗ることに熱中したという。ペレ氏の性格、好み、社会的地位を知っているので、このヴェロシペードと呼ばれる乗り物はまだまだ皆から受け入れられていないということを感じた。』 ここに登場するペレ氏とは、ミッシェル・ペレ(1813-1900)をさし、クロード・ペレ(1789-1860)の息子なので、ジュール・オリヴィエの義理の兄弟にあたるため、オリヴィエ兄弟からすると、叔父さんとなる。同兄弟は、チュランに住んでいたペレ叔父さんに会うために、遠回りしたということが容易に想像できる。 ミッシェル・ペレの人となりは、チュラン市役所発行のパンフレットによれば以下のとおりである。『ミッシェル・ペレは1813年にリヨンで生まれた。父親は化学工場を経営していたため、ペレ自身も化学者としての道を歩むことになる。1833年に安価で硫酸を製造する方式を考案し、富と名声を得た。ペレは発明好きで、葡萄の病気に効果的なミッシェル・ペレ湯沸かし器を発明した。1861年にチュラン市内にあるシャルトルーの館を購入した。ペレは病弱で、空気がきれいでないリヨンを離れ、静養するためであった。ペレは1866年にチュラン市長に任命された。なお、シャルトルーの館は、その後所有者が何人か変わったが、1949年にはチュラン市が購入し、現在はチュラン市役所となっている(写真7)。』
写真7.ミッシェル・ペレが、1861年に購入したシャルトルーの館(現在のチュラン市役所)
以上により、オリヴィエ兄弟がこのコースを辿ったということについては、ほぼ間違いないと思われる。その他わかっていないことはいろいろあるが、そのうちの一つは、正確な日程であろう。1869(明治2)年6月10日付けヴェロシペード・イリュストレ誌(パリで発行されていたミショー型専門の週刊誌)によると、オリヴィエ兄弟は8日間で走破したという。1868(明治1)年10月20日付けのル・サリュ・ピュブリック紙(リヨンの日刊紙)によると、1日につき、80kmから100kmを走破したという。それも、休息や食事の時間を十分にとった上で、である。やはり、同紙によると、チュラン経由のパリ~アビニョン間のコースは約746kmになるという。8日間で走破したと仮定すると、1日平均では、約93kmとなり、この日刊紙に書かれている数字の枠にあてはまる。オリヴィエ兄弟は、1日に平均で80kmから100kmを、8日間通しで(休息日なしで)走ったということは、1865年9月1日にアヴィニョンに到着したということを考慮して、ざっと計算すると、8月25日頃にパリを出発したのではないかと推定できよう。 オリヴィエ兄弟は、ミショー車による旅を楽しみつつ、チュランに住むペレ叔父さんやアビニョンの父親に合いに行くことだけが目的であったのだろうか。オリヴィエ兄弟はエコール・セントラルの在校時から既に、ミショー車のファンになり、しかもよくミショーのアトリエに通っていたということは既に述べたとおりであるが、その当時の模様をジュール・オリヴィエも日記帳に残している:『1864(元治1)年10月8日。チュランから出発。ヴェロシペードの前フォーク(寸法入り)』。それにはこうも書かれている:『1864年11月12日。エメとマリウスはアビニョンを発って、リヨンに向かう。ヴェロシペード(36kg)の送付。』前述のファーブル著『ル・ヴェロシペード』にも書かれているように、ペレはオリヴィエ兄弟が持ち込んできたミショー車にいろいろと改良を加えたという。ペレ家が経営していたリヨンの化学工場で、設備機械の整備を担当していたガベールは、オリヴィエ兄弟やミッシェル・ペレの指示に従い、ミショー車の改良に熱心に取り組んだともいわれている。 当時のミショー車は大変重く、可鍛鋳鉄製のフレームは折れやすかったという。といっても、その当時のミショー車のフレームが木製であったのか、鋳鉄製であったのかを確定できる資料さえ、まだ見つかっていないのが現状なので、あくまでも想像するしかない。ただ、その当時のミショー車の形は、パリ~アビニョンの旅の翌年に、ピエール・ラルマンがUSAで取得したミショー型に関する特許(N°59915、1866[慶応2]年11月20日)に添付されているデッサン、いわゆるラルマンタイプと呼ばれるモデルとほぼ同じであろうとの推測は可能であろう(写真8)。
いずれにしても、オリヴィエ兄弟は、長い距離の走行に耐えられる頑丈でしかも軽いマシーンを希望していたのは間違いないように思える。そうしてこそ、初めて、実際に役に立つ乗り物となることができるからであった。この考えは、1869(明治2)年に、ルネ・オリヴィエが主催した世界最古のロードレースとして知られるパリ~ルーアンの主催趣旨であった、『ミショー型ならば、長距離を、しかも、それ程疲れずに走ることができるということを実証する』ということにも通じている。パリ~アビニョンに挑戦した本当の目的は、この自分達が改良したミショー車の耐久性を試すことにあったのではないだろうか。 前述のリヨンの日刊紙によると、チュラン経由のパリ~アビニョン間のコースは約746kmであるが、これは日本でいうと、大体東京から広島あたりまでの距離に相当する。さて、それでは、その当時(仏でいうと第2帝政時代)の道路状態はどのようなものであったのだろうか?オリヴィエ兄弟等が辿ったコースの大半は、仏帝国道7号線で現在の国道7号線にあたる。この帝国道はフランスとイタリアを結ぶ道路として重要であったため、国が最優先で整備をした。道路の路面は、1815年に考案されたマカダム式舗装(砕石舗装、この工法の考案者であるスコットランド人技師の名前)であったと推測される。砂の上に砕石を敷き詰めて、ローラーで圧し固めただけであったが、砕石は天然の砂利と異なり表面が荒く、圧し固めるだけでガッチリと噛み合うので、耐久性もあり、仕上がりも美しかったといわれている。ローラーは1829年にベルサイユ市内の道路工事で初めて使用されているが、直径2mの鋳鉄製の円筒に砂を詰めたもので、重量は6トンもあったという。最初は馬で曳いていたが、後に蒸気機関(スチームエンジン)が使用された。ルイ14世から始まりナポレオンにより確立された国立道路&橋管理局による一貫した建設制度により、19世紀後半におけるフランスの道路は、欧米で最も整備されていたので、オリヴィエ兄弟が走破したコースは、私たちが今想像するほどにひどくはなく、恐らく、かなりましであったのではないかと思われる。
写真9.世界最初のサイクルツーリング記念碑建立セレモニー。 巨大ヴェロシペードをかたちどったモニュメント。アビニョン(フランス)。
写真10.アンリ氏とレイノー氏両氏の個人コレクション展示会。 アビニョン(フランス)。
この世界最初のサイクルツーリングの記念に、2009年4月12日、復活祭サイクリング(FFCT[フランス・シクロツーリスム連盟]主催で4000人のサイクリストが参加した)の行事の一環として、ロズレイの工場に近いロータリーに、巨大ヴェロシペードの形をした記念碑が建立された。この巨大ヴェロシペードは、ル・ポンテ市が属するヴォークリューズ県にあるオランジュ市のアルジャンソン県立工業の生徒が共同で制作したものである。このモニュメントの除幕式には、ル・ポンテ市長のコルタード氏も参列した(写真9)。更に、ル・ポンテ市内では、この巨大ヴェロシペードの除幕式を記念して、地元のアンリ氏とレイノー氏両氏の個人コレクションによる展示会が開催された(写真10)。 この世界最初のサイクルツーリングの重要性に関する認識が年々高まってきている。このため、5年後の2015年がパリ~アビニョンの150周年(1865-2015)にあたるので、その記念ライド計画が有志の間で検討され始めているといわれている。
参考文献 自転車文化センター研究報告書第2号。2009年3月。『ドライジーネとミショー型』、40&41ページ