マクミラン型自転車の真偽について

                                             小林恵三
 カークパトリック・マクミラン(写真1)は、1839(天保10)年ないしは1840(天保11)年頃に、ドライジーネ(1817[文化14]年)のように地面を足で蹴って走行するのでなくて、地面に足をつけなくとも走れる初めての自転車(写真2&3)を考案した人物としてよく知られている。  マクミランがスコットランドの出身ということもあり、特にイギリス人の間では、今でも、マクミランの鍛冶屋があったコートヒル(ダンフリーシャー州都のダンフリーからの北東に約25km)の家(写真4)と、そこから南に500m程にあるカイルミルにあるマクミランのお墓まいりをするサイクリストはあとを絶たない(写真5)。
 ところが、最近ではイギリスの自転車史研究家の間で、マクミランが本当に1840年頃に、初めて地面から足を離して走行できる自転車を発明したのかどうか疑問を持つ人が増え始めている。マクミランを信じる人と信じない人との議論は果てしないが、それは、自転車の歴史に限らず、歴史は資料の裏付けがあってこそ初めて歴史となりうるが、マクミランの場合には、その辺が全く欠けているためである。  ここでは、資料の裏付けが全くないにもかかわらず、マクミランが自転車の発明家として信じられるようになった経緯とその理由の分析を試みよう。 

写真1 カークパトリック・マクミラン
(ダンフリー市立博物館所蔵)

 全ては、1888(明治21)年に開催されたグラスゴー自転車ショー(グラスゴーはスコットランド地方の首都エジンバラに次ぐ大都市)から始まったといえよう。このサイクルショーで初めて、1846(弘化3)年にギャビン・ディーエル(Gavin DALZELL、そのまま読んで『ダルゼル』と発音するのであろうと思うのが普通であるが、スコットランド語では『ディーエル』と発音する)が製作したという、いわゆるマクミラン型と同じ駆動機構を持っている自転車が展示されたのであった。ディーエルは1812(文化9)年に生まれ、1863(文久3)年に亡くなっているが、それ以外の詳しいことはわかっていない。
 
写真2  マクミラン型自転車(ダンフリー市立博物館所蔵)
写真3  マクミラン型自転車 (ロンドンの科学博物館所蔵)
 
写真4 マクミランの鍛冶屋があったコートヒルの家
写真5 カイルミルにあるマクミランのお墓
 

 このディーエル型自転車の所有者は、ディーエルの息子であるジェームズ・ディーエルであったが、1846年に製作されたことの証明として、当時の手紙2通と領収書2枚を提示したが、それらには、はっきりと『2輪の自転車』とは明記されておらず、単に『乗り物』(Riding machine)と書かれてあったといわれている。1889(明治22)年2月20日付けの『ザ・スコティッシュ・サイクリスト』誌によれば、これは、ディーエルが当時(1846年)乗っていた3輪車の関連書類である可能性が強いという。 このディーエル車は、翌年(1889[明治22])年にロンドンで開催されたスタンレーショー(当時の自転車ショーとしては世界的にみても最大級であった)でも紹介された。現在グラスゴー交通博物館に展示されているマシーンは、この2つのサイクルショーに展示されたものであろうと思われるが、もし、1846年にディーエルが製作したものでないとすれば、それでは、誰が何時作ったのかに関する情報は当然であるがない。更に、グラスゴー博物館が所有している管理原簿には、いつ同館に入ってきたかの記載もなく、全くはっきりしていない(写真6)。  ディーエルとマクミランの接点も、この1888年のグラスゴー自転車ショーから生まれる。グラスゴー3輪車クラブのメンバーであったジェームズ・ジョンストン(写真7)は、展示されていたディーエル車を見て、ものすごく憤慨した。このタイプの自転車を発明したのはディーエルではなくて、自分の遠い親戚にあたるカークパトリック・マクミランであると確信していたからである。
 これを境にして、ジョンストンは、自分の考えが正しいことを証明するために、精力的に調査を開始した。その方法は主に実際にマクミランを知っていた人々にインタビューすることであった。しかし、ジョンストンの質問の仕方はまるで誘導尋問に近かっ た上に、インタビューに応じた人達はどちらかというとジョンストンに気にいられるような形で答えたという(『ザ・スコティッシュ・サイクリスト』誌、1892[明治25]年2月17日&3月23日付け)。  ジョンストンは、その努力の甲斐もあり、とうとう当時の資料を1点だけ見つけたが、それは、1842(天保13)年6月9日付けの『グラスゴー・アーギュス』紙に載っていたある交通事故に関する記事であった。

写真6  ディーエル型自転車。左上は、ギャビン・ディーエルの肖像画(グラスゴー交通博物館所蔵)
写真7.ジェームズ・ジョンストン(KM150祭公式プログラム)

  « 水曜日、ダンフリーシャー州のソーンヒルから来たという男性が、ヴェロシペードで歩道を走り、子供を撥ねたという理由で、ゴーバルス(グラスゴー市内南部の地区名)交通裁判所に出頭した。
その男性によると、前日に、カムノックからグラスゴーまでの40マイル(1マイル=1.609km、64,36km)をヴェロシペードに乗って5時間で一気に走破したという。
幸いなことに、子供は怪我をしなかったので、被告は5シリングの罰金刑を受けただけですんだ。
このヴェロシペードはよくできていた。クランクを手で回すことにより、車輪を駆動していたからである。 »

 ソーンヒルはマクミランの鍛冶屋があったコートヒルから東に約4kmのところにある町である。この記事では男性の名前は特定されていないが、マクミランであると信じてもよいように思われる。問題のヴェロシペードは、いわゆるマクミラン型自転車とは程遠い3輪車ないしは4輪車と考えるのが妥当であろう。1817(文化14)年に、ドライジーネが発明された時には、『ヴェロシペード』は主に2輪車を意味していたが、その後は、『ヴェロシペード』を意味する内容がより広い意味-4輪車をも含めた軽車両というような意味-で使われたと思われるが、この記事でもそれがあてはまるように思われる。

 スコットランド国立博物館陸上交通機関部学芸員であるドッズ氏は、この記事でいうヴェロシペードは写真8のような3輪車であったのではないかと推定している。手と足を使うことを除けば、後輪を駆動する仕組みはいわゆるマクミラン型自転車にそっくりといえよう。但し、現時点では、この写真が撮影された時期や写真の人物がマクミラン本人であるか等々、はっきりしたことは残念ながらわかっていない。
 いずれにしても、ジョンストンは、せっかく見つけたこの記事が自分の信じることとあまりに違うし、むしろ逆行するので、この件については一切公表しなかった。いろいろ紆余曲折はあったにせよ、結果的に、ジェームズ・ディーエルは、父親のギャビン・ディーエルよりもマクミランの方が早かったということを、ジョンストンに認めている。こうして、スコットランド人同士のどっちが早いかという論争はひとまず落ち着いたのであった。
  

写真8  マクミラン(?)とそのヴェロシペード
N.マクミラン氏&スコットランド国立博物館提供   『ザ・ボーンシェーカー』誌、1991年冬季号、 18&19ページ

 ジョンストンの調査にもかかわらず、又、マクミラン型自転車がこれほど有名になったにもかかわらず、マクミラン自身のことは殆どわかっていない。マクミランは、1
812(文化9)年9月2日に、カイルミル(彼のお墓がある村)で生まれた。父親は鍛冶屋で本人も鍛冶屋であった。1878(明治11)年1月28日に、コートヒルで、肺炎で亡くなっている。マクミラン家の家族構成については、前述のドッズ氏の調査により、だいぶ詳しくわかるようになったが、実際の活動についてわかっているのは、1862(文久2)年に開催されたダンフリー農業展で、軟鉄製の馬車向け梶棒を展示した、ということぐらいである。

 ディーエルから譲歩を引き出したジョンストンの最後の切り札は、トーマス・マッコールであった(写真9)。マッコールは1834(天保5)年にペンポン(コートヒルから北に1km弱の小さな町)で生まれている、車大工の職人であった。従って、マクミランとほぼ同郷で鍛冶屋と車大工という同じような世界にいた人物である。マッコールは1904(明治34)年にキルマルノック(グラスゴーから西南に約34kmの小都市)で亡くなっている。マッコールは車大工の腕を生かして、1869(明治2)年に、2種類の『ヴェロシペード』を製作したが、これは当時の雑誌に掲載されているので確かである。
※『キルマルノック・ヴェロシペード』。『イングリッシュ・メカニック』誌、1869年5月14日付け(写真10-1)。
※『改良型キルマルノック・ヴェロシペード』。『イングリッシュ・メカニック』誌、1869年6月11日付け(写真11-1)。
 もう既にお気づきかもしれないが、写真10-1と写真10-2、写真11-1と写真11-2が本当にそっくりであることがわかる。
※写真10-2 現在ダンフリー市立博物館に展示されているモデルは、マッコールがジョンストンの依頼を受けて、1896(明治29)年にロンドンのクリスタルパラスで開催された自転車回顧展の出展のために特別に作られたレプリカである。

写真9   トーマス・マッコール  (ダンフリー市立博物館所蔵)

※写真11-2 ロンドンの英国国立科学博物館に所蔵されているモデルは、1907(明治40)年にケール氏から購入している。だが、どうみても、『改良型キルマルノック・ヴェロシペード』のレプリカとしか思えないほど、非常によく似ている。マクミラン型自転車が知られるようになった1890年代以降に作られたとしか思えない。
 マッコール製ヴェロシペードはどちらもペダルとシャフトで後輪を駆動する、ちょうど蒸気機関車と同じような仕組みを採用しているが、マッコールは、『マクミランが使用していた仕組みにヒントを得た』と認めている。ここで、マッコールは、『マクミランは“2輪車”にその種の仕組みを使用していた』とは言っていないにもかかわらず、この証言がジョンストン説の切り札となり、いわゆるマクミラン型自転車の伝説が定着してしまったといえる。
写真10-1 『キルマルノック・ヴェロシペード』 『イングリッシュ・メカニック』誌、1869年5月14日付け

写真10-2 マクミラン型自転車
(ダンフリー市立博物館所蔵)

写真11-1 『改良型キルマルノック・ヴェロシペード』。『イングリッシュ・メカニック』誌1869年6月11日付け

写真11-2 マクミラン型自転車     (ロンドンの科学博物館所蔵)

 歴史は資料の裏付けがあって初めて歴史となりうるということは既に述べたが、マクミランに関する確かな資料は、以下の3点しかない。
※『グラスゴー・アーギュス』紙、1842(天保13)年6月9日付け。
※『イングリッシュ・メカニック』誌、1869(明治2)年5月14日付け。
※『イングリッシュ・メカニック』誌、1869(明治2)年6月11日付け。
そして、これらの資料では、いわゆるマクミラン型自転車が存在していたということを実証できない上に、『グラスゴー・アーギュス』紙はそれをむしろ否定さえしている。そして、更に注意しておきたいのは、ディーエル型自転車を含めていわゆるマクミラン型自転車は、ミショー型の全盛時代である1869(明治2)年以前に遡るという確かな資料が無いことである。

さて、もう一度、マクミランの鍛冶屋があったコートヒルの家を訪れることにしよう。この家の道路に面した壁には以下の3枚の記念プレートが設置されている(写真12)。
※正方形の石版には、『この鍛冶屋で、1840(天保11)年頃に、最初の自転車がカークパトリック・マクミランによって製作された』と彫られている(写真13)。ジョンストンにより、1899(明治32)年頃に設置された最初の記念プレートである。1894(明治27)年に、ペダルを発見したピェール・ミショーの生まれ故郷であるバール・ル・デュック(フランス)でミショー記念碑の除幕式が行われた。それは、ドライス男爵(ドイツ人で、ドライジーネの発明者)の記念碑が建てられてからちょうど1年後であった。これらのイベントと前後して、自転車の歴史に対する関心が高まり、ペダルの発明に関する議論が戦わされ、更に、セレリフェールを

写真12  コートヒルの家にある3枚の記念プレート。中央のが1899年頃の設置で一番古い。次が左側で1946年の設置。一番右側は1990年の設置。

始めとする数々の作り話がいつのまにかできあがってしまった。カークパトリック・マクミランの伝説も見事にこの時期に作られたのであった。
※長方形のプレートには、『1939(天保10)年、自転車百周年記念。英国自転車協会は自転車の発明者であるカークパトリック・マクミランに対し栄誉を表する。“彼は自分の知っている以上の自転車を製作した”』(写真14)と書かれている。本来は1839年から数えて100周年にあたる1939年に予定されていたが、第2次世界大戦が勃発したため、戦後の1946年に除幕式が行われた。これを主導したのは英国の自転車産業界であった。又、この年に、ゴードン・イルヴィン著『自転車に乗った悪魔』が出版され、大変評判になり、マクミラン型自転車の伝説がより確固としたものになった。
※KM150祭(カークパトリック・マクミランによる自転車発明150周年記念。c.1840-1990)のメインイベントとして、この記念プレートの除幕式が行われた(写真15)。故ジョン・ピンカートン氏がコーディネートしたイベントではある。このイベントの行事の一環として、第1回国際自転車歴史会議が、ニック・クレイトン氏(『ザ・ボーンシェーカー』誌編集長)の主催で開催され、そのメインテーマが、マクミラン型自転車の存在に疑問を投げかけたことであったとは、まさに自転車歴史上の皮肉といえようか。

写真13 ジョンストンにより、1899年頃に設置された最初の記念プレート。  

写真14 マクミラン型自転車百周年記念プレート。1946年に除幕式が行われた。

   
 
写真15 故ジョン・ピンカートン氏がコーディネートしたKM150祭(マクミラン型自転車発明150周年記念)を記念した設置された最新のプレート。
 

 マクミラン型自転車の発明論争は、もともとはスコットランド人同士の、どっちが早いかという問題にすぎなかった。ところが、この論争はアメリカにも波及してしまったといえる。アメリカでは、『1842(天保13)年にアレクサンドル・ルフェーブルが考案したマクミラン型自転車』に関する論争が現在行われている。この果てしない論争の中で一つだけはっきりしているのは、マクミラン型自転車の発明論争に共通していることでもあるが、裏付けとなる確かな資料がないことである。ルフェーブルの子供や孫の証言とか、後世になって作成された証明書等々を元にした論争は不毛そのものであるとしかいいようがない。
 筆者は写真でしかこのルフェーブル車を見ていないが、ミショー型の全盛時代であった1869(明治2)年に製作された変形のミショー型としか思えない。これといった当時の資料が改めて発見されない限り、検証を開始する価値さえないテーマと考えている。マクミラン型自転車という作り話をベースにした、更なる作り話にしかすぎない、というのが筆者の現時点での仮の結論ではある。

(日本自転車普及協会 パリ駐在員)