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    TOPページ > 自転車の歴史 > 女性が自転車に乗ることが出来なかった戦前の日本について



自転は187年前にドイツ人のドライス男爵によって考案されたが、日本に伝来したのは幕末である。最も古い記述は慶応元年に発行された橋本玉蘭斎著「横浜開港見聞誌」で、横浜居留地の外国人が持ち込んだものであろう三輪の自転車の図が描かれているが、乗り手は女性である。



幕末に渡来した自転車に乗る女性(横浜開港見聞誌より)


横浜の居留地に登場した自転車は数年のうちに東京の人々や、同様にして神戸の居留地から大阪の人々の目に留まるようになった。横浜では明治10年(1877年)に貸し自転車業がはじまり、丁稚(でっち)や番頭などが我先にと借りに来て、1時間25銭の高い賃料にもかかわらず自転車が不足するほど繁盛した。

国内の自転車保有台数が2万5982台に達した明治31年に、本格的な自転車取締り規則が警視庁から布達されたが、女性たちは自転車と殆ど縁がなかった。
自転車と関係して最初に登場する女性は嘉永2年(1849年)または6年(1853年)に、神奈川県藤沢市周辺で生まれたお玉である。お玉の家は貧しく、幼くして娘手踊りの一座に売られた。その後横浜で洋妾(ようしょう)となった後、築地の居留地のホテルで働くことになる。当時まだめずらしかった洋装で明治の初期頃自転車に乗り、銀座を走行して話題になった。しかし、話題になったため、かつて金を盗んだ被害者に発見されてこれを殺害し、逮捕された。明治9年(1876年)または11年死亡する。
この話は明治33年(1900年)6月、井原青々園著「探偵実話・自転車お玉」で紹介され、その年の11月浅草の常盤座で芝居として上演され、情痴の自転車美人として話題になった。しかし、お玉は実在したかどうかは定かではない。

自転車が考案されてから2年後には女性用も考案され、ヨーロッパでは女性が自転車に乗ることはごく普通のことであった。ポーランドの科学者キューリー夫人は明治28年(1895年)に結婚し、自転車を使って新婚旅行に出かけたという。また、明治24年(1891年)に軽井沢で撮影された写真には婦人用自転車を携えた名古屋柳城大学創設者ミスヤングが映っている。ところが、日本では、明治30年(1897年)頃までに自転車に乗った女性がいたであろうと考えることはできるが、はっきりとした記録はない。確かな記録として登場するのは明治33年(1900年)の三浦環(みうら たまき)である。東京音楽学校を卒業し、母校の助教授を経て帝国劇場歌劇部主席歌手となり、その後ドイツに留学してからロンドンへ移る。大正4年(1915年)オペラ「蝶々夫人」で好評を博し、以来20年間ヨーロッパ・南北アメリカ等の歌劇場で2,000回の公演を行った日本のオペラ歌手の先駆けとなる女性である。


 その三浦環が明治33年(1900年)16歳のとき、公証役場を開く父との約束で東京芝区西久保桜川町(現在の虎ノ門1丁目)から上野の音楽学校まで毎日自転車通学を始める。当時はまだ山手線や市電で上野まで行くことができず、人力車を使うか、飯田橋から歩くしかなかった。当初反対していた新しいもの好きの父は環に自転車を買い与え、これで通学する条件で進学を認めたのである。この当時の女性は着物姿でスポーツをする機会もなかったので、若い娘が自転車に乗るということは突拍子もないことで、もしかしたら父はそれで進学をあきらめることを期待していたのかもしれなかった。



中央が三浦環


 アメリカ製自転車が215円でかけそばが1銭8厘の時代である。環は2、3日練習しただけでなんとか乗れるようになった。紫の大矢羽の着物に燃えるような緋の袴をつけ、髪に白いリボンを結んだ環が真新しい外国製自転車のペダルを踏んで颯爽と走っていく。この頃の東京府内の自転車は2,000〜3,000台あり、それほど珍奇な乗り物ではなくなったが、通行人は思わず歩を止め、見守り、見送った。やがて道順が知れわたる頃にはその道端に環の自転車姿を見ようとする野次馬が列をなし、待ち受けるようになった。新聞にも「自転車美人」という題で環のことが度々登場した。

  この三浦環の評判を聞いた小杉天外は、それをイメージにして明治36年(1903年)2月から9月まで読売新聞に小説「魔風恋風」を連載した。ヒロイン萩野初野が颯爽と自転車で現れるところから始まる。「鈴の音高く、現れたのはすらりとした肩の滑り、デートン色(※深紅色。デートンとはアメリカの自転車メーカーの名前)の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして、白リボン清く、着物は矢絣の風通、袖長ければ風になびいて、色美しく品高き十八九の令嬢である。」銀色のスポークをキラキラ光らせて走るこの当時の女性用自転車は、スカート姿でも乗ることが出来るループ型と呼ばれるフレームで後輪にはスカートの巻き上げを防ぐためのネットが張られるなどの工夫が施されていた。こうした自転車と、可憐な乙女の組み合わせは流行の先端を行く姿であり、この姿は当時の様々な広告に使われ、以後ハイカラな女性と自転車が結びついていった。




明治38年(1905年)頃の引き札


この人気も実は自転車を輸入していた会社が自転車時代を作るためのPRとして女性を乗せての話題作りであったのである。明治35年(1902年)の東京府下の自転車台数は自家用4,571台、営業用85台で、営業用とは貸し自転車のことで自転車購入希望者の練習用に自転車屋が備えていたものが大部分で、自家用がようやく増えてきたときである。話題作りが効を奏してくると明治36年(1903年)本郷に自転車練習場を開設した。自転車の新需要開拓をみごとに実践したのである。

 


デートン88号(ループ型) 定価165円
双輪商会カタログ(明治30年代)
※1.


 ところで、三浦環が自転車で通学を始めた半年後の明治33年(1900年)11月、日本で最初の女子の自転車倶楽部「女子嗜輪会」が三浦環も会員の1人となって発足した。後に下田歌子(日本の女子教育のために活躍)を顧問に迎えステータスの高い存在となる。こうした女性の自転車倶楽部の会員も自転車を上流社会のステータスシンボルとして捉えていた。したがって自転車の普及とともに芸子が多く自転車に乗るようになり、嗜輪会の中には「芸者風情が走るようでは自転車の品が落ちる」という意見も出て、ついには明治37年(1904年)、会の活動を停止してしまった。その芸子で最初に自転車に乗ったのは明治33年頃、新橋の「おゑつ」であったようである。さらに下谷の中川家の「さかえ」は明治35年頃(1902年)19歳のとき、自転車芸者として絵葉書まで出来て売り出された。このように、明治30年代は女性も自転車に乗るようになってきたが、それは表面上のことで、上流社会の一部の女性がステータスシンボルとしてとらえるか、男性が見世物としてしかとらえていなかった。

 



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