

日米富士自転車は日本を代表するメーカーであり、その歴史は日本の自転車の歴史であるともいえます。その中でも覇王号は日米富士自転車のトップブランドでした。
この日米富士自転車の歴史は明治32年11月、岡崎久次郎が東京京橋の竹川岸に日米商店と号して店を構え、アメリカ製懐中電灯の輸入販売をはじめたときから始まります。33年10月からアメリカ製レロイ自転車の輸入販売をはじめましたが、月賦販売を取り入れる方法で業績を伸ばし、翌年にはアメリカ製のグッドリッチ号、クラウン号の取り扱いもはじめるなど、順次取り扱う車種を増やしていきました。36年には、スターリング号の日本における独占販売権を得て、本格的な自転車の卸販売事業に進出し、全国各地に特約店を設置していきました。そうした中で、38年、イギリスの自転車メーカーである「ラーヂウィットウォース」社の日本代理店からラーヂ号の売込みがありました。この当時、石川商会(丸石自転車の前身)が扱っていたアメリカのピアス号が195円、ス子ル号優等車が125円の中で、ラ-ヂ1号はフリー式(ペダルを逆回転させると空回りする機構)が280円、コースター式(ペダルを逆回転させるとブレーキがかかる機構)が300円という価格(図1)は日米商店にとってその扱いに迷いがありました。しかし、価格の差でイギリス車を圧倒していたアメリカ車も、輸入台数が年々減少傾向を示すようになってきたため、このラーヂ号を取り扱うことを始めることとなり、39年には「ラーヂウィットウォース」社からの直接輸入販売となりました。
明治39年3月16日付「時事新報」広告には皇室名を前面に出して高価格であるがゆえにあえて高級車であることを打ち出しました。


11年、再び「ラーヂウィットウォース」社からラーヂ号が輸入されるようになったときはこれとほぼ同等のラーヂ号が国内生産できるまでになっていました。このため、大日本自転車ではラーヂ号の輸入打ち切りの方針を明らかにしました。これは国内技術の向上の他に、自転車価格の下落傾向が続
く中で4割関税による高価格では購買の対象にならないという社会状況の変化によるものでした。この方針は「ラーヂウィットウォース」社との間で商標権問題に発展することは必至で、日米商店としてはラーヂ号の名称変更を段階的に行っていくこととなり、昭和2年11月、従来のラーヂ号をラーヂ覇王号と名づけ、ラーヂ号を示す「手印」(図2)に「覇王」の文字をあしらったマークを使い、販売を開始しました。
(図3)。
販売方法は1年12回の分割でした。フリー式は分割価格135円(初回36円、2回目以降残り11回は各回9円)、コースター式は140円(初回41円、2回目以降残り11回は各回9円)で、婦人車も同時
に2タイプが発売されました。同業他社の小売価格がA級車で120~130円、B級車で115~120円、C級車で90~100円のときでした。
まさしく日本を代表する自信に満ち溢れた自転車であるということがわかります。翌年の昭和3年3月、上野公園で開催された御大礼記念国産振興東京博覧会に出品し、その後も仙台、広島、別府、高松、名古屋で開催された同博覧会にも出品されました。
このラーヂ覇王号も「ラーヂ」という商標の使用権禁止がイギリス大使館を通じて申し入れてきたため、発売後わずか8ケ月でその名を冨士覇王号(ワ冠の冨)に改めました(図4)。しかし、「ラーヂ」から「冨士」への移行による影響は大きく、また4年に起こった世界恐慌のあおりで需要の低迷と生産の過剰で市販価格の値下がりが続き、さらに卸商が組み立てて提供する低価格車に高級車は押されるようになってきました。このため冨士覇王号も1台135円の価格が85~90円まで下がる一方で、日米商店も6年6月には低価格実用車「鬼号」を発売するに至りました。



※チェーンカバーがセルロイド(ラーヂ号もセルイドが特徴として売り出していました)になっていること
※ブレーキレバーの作動をブレーキ本体に伝えるロッド(棒状)がハンドルフレームの中に入っていること(図6)
※どろよけカバーが山型になっていること(他車は丸みを帯びているのが多い)(図7)
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図6 ブレーキレバーの作動を伝えるロッドがハンドル フレームの中に入っているため、外から見えない |
図7 泥除けカバーが山型 |

図8 昭和11年のポスター左は拡大したもので
新冨士覇王号の文字が見える
7年以降、原材料の値上がり傾向が続き、政府の高物価政策と相まって部品価格の値上があったものの好況を呈するようになり、8年からは冨士覇王号の満州への輸出も始まりました。9年2月での冨士覇王号の小売価格は代理店での取り決めで呼値85円、最低73円とすることが決められました。
10年になると戦時体制が強化されるようになり、需要と利益が減退傾向を示しはじめました。そこで11年からギヤ等を改良して新冨士覇王号と称して販売をはじめ、翌年から販売実績を3ヶ年で2倍にする「3ヶ年計画販売倍加運動」につなげました(図8)。
その計画の最後の年である14年9月に物価停止令が発令され、それに伴って卸売協定価格が12月に東京と名古屋で制定されました。
特級・A級~D級の5段階で冨士覇王号は特級で95円でした。しかし、資材不足と労働力不足は日に日に減少し、15年9月17日に自転車が配給統制となると日米商店は国内4支店を休業あるいは国内販売の取り扱いを中止せざるを得なくなり、全国の代理店制度も廃止となりました。 16年上半期には冨士自転車全体で配給用約6200台、逓信省納入用として約7000台を製造したに過ぎず、以降資材不足による減少が続き、19年には配給が絶無となりました。
という言葉とは裏腹に27年6月に発行された小売店向けの小冊子「富士タイムス」には小売店と会社との座談会において次のようなコメントが掲載されています。

図9 特級富士覇王号昭和34年のカタログより
また、34年における富士特級覇王号と2番目のブランドで
ある高級富士号との違いから富士覇王号のみの特徴を取り上げ
ると次のような点があります(図9)。
しかし、自転車の役割が荷物運搬用から近距離移動用、レジャー用、子ども用に移行が進み始めると、覇王号の役割が見直され始め、34年末には特級覇王号が消え、36年の総合カタログ(図10)にはトップページに掲載されているもののキャッチコピーはなく、これが最後の写真付でした。36年における日米富士自転車の会社としての企画方針は販売車種を通学通勤用、スポーツ用、ご婦人の買物用にすることでした。これに沿って軽快車富士ホビー、スポーツ車富士ダンディ、男女兼用車富士ホームホビー、ニューレディユース、女性用車ニューホームユースが新車として発売され、製造車種の転換が図られはじめました。 37年の総合カタログには最終ページに車名が掲載されているのみで、38年にはその号名も消えてしまいました。

