資料から知る自転車の歴史 9      

昭和13年に設置された自転車専用レーンを探る    谷田貝一男

                       資料

          昭和13年 日本自転車連盟編集 自転車運動綱要
          昭和7年  「自転車道の施設を提唱す」 江守保平 
          各種板橋区の歴史書

 自転車による交通事故は平成20年に16万2525件発生しましたが、これは交通事故全体の約21.2%を占めています。これを10年前と比べると交通事故全体の件数は減少していますが、自転車による交通事故は反対に増加し、交通事故全体に対する割合も17.8%から毎年増加しています(表1)。
                        表1 自転車事故の発生状況

  自転車の事故件数 全体の交通事故件数 自転車事故の全体に占める構成率
平成10年
14万3017
80万3878
17.8%
平成20年
16万2525
76万6147
21.2%

        ※自転車が第1・2当事者となった件数 (警察庁 自転車の安全利用の推進HPより)
 また、事故の相手当事者は自動車が全体の82.6%、歩行者が1.8%ですが、特に対歩行者事故は10年前の約4.5倍になっています(表2)。
                   表2 平成20年の自転車事故の相手当事者別件数         

 
件数
構成率
平成10年との増減数
対自動車
13万4300
82.6%
+5635
対二輪車
1万0639
6.5%
+188
対歩行者
2942
1.8%
+2281
自転車相互
4322
2.7%
+3658
その他
1万0322
6.4%
+7746
  (警察庁 自転車の安全利用の推進HPより)

 自転車が安全に走行できるためには、ある程度の道幅のある一般道路においては、自動車、歩行者と切り離して自転車専用の走行路が確保されていることが最も望ましいことです。
フランスのパリ市では1995年に8kmだった自転車専用レーンが2007年には371kmまで延び、その結果としてレンタサイクル「ベリブ」を導入することができ、さらに二酸化炭素の排出量を5年間で32%減少させるまでに至りました。
 この自転車専用レーン、東京都内では渋谷区幡ヶ谷の旧玉川水道道路(写真1)や江東区亀戸の国道14号線で短距離ながら実験的に設置されています。

  (右)写真1 渋谷区幡ヶ谷の旧玉川水道道路での自転車専用レーン青色帯で巾1m

 ところで、日本で最初に一般道路上に自転車専用レーンが作られたのはいつ、どこだろうか。昭和13年6月15日に日本自転車連盟が編集し、目黒書店から発行された「自転車運動綱 要」という書籍の361ページに写真2が掲載されています。

写真2(昭和13年 
自転車運動綱要)
現在の志村3丁目から志村坂上方向を見たところか?

注釈には
「昭和13年東京市板橋区志村町に竣工した、わが国最初の自転車専用道路」
と書かれています。道路構成図より横巾25m道路で、両脇に歩道がそれぞれ3m、中央に12mの車道があり、それに挟まれた両側にそれぞれ3.5mの自転車専用レーンが設置されていることになっています。

 志村町、道路巾25mということから国道17号線の中仙道であることがわかります。写真を見ると緩い坂道になっていて、右側に擁壁があります。昭和12年発行の1万分の1の地形図を見ると中仙道で擁壁が描かれているところが1ヵ所あり、その付近には延命寺、熊野神社があることがわかります(図1)。
 また、昭和11年4月に撮影されたとする志村坂上から坂下へ向かう中仙道の写真にも類似の擁壁が写っています。これらの条件と道路の形状を重ね合わせてこの場所を現在の地形図で探すと、都営三田線志村坂上駅から志村3丁目交差点までの間であろうことが推測できます。

図1 昭和12年発行  中央部下のあたりか?

[中仙道の拡張に至る背景について]
 旧板橋(現在の板橋区東部)の人口は次のように増加していきました。
明治20年:3415人 大正14年:2万5983人 昭和5年:4万4713人
昭和7年10月に西部を含めた新板橋区が誕生しました。このときの人口は次のように8年間で2倍に急増しています。
昭和7年:12万0168人  昭和15年:23万3115人
 特に中仙道の志村3丁目より南側は甲種特別地区に指定されたため、危険物取扱工場や化学工場などが続々と移転してくることになり、昭和13年9月現在、76工場に1万3180人の職工員がおり、そのうち1万2580人が中仙道を利用して通勤しているという記録があります。当時は現在の三田線板橋区役所前駅手前までは市電が敷設されていましたが、そこから志村方面は中仙道乗合バスと東都乗合バスに頼るしかありませんでした。当時のバス1台当たりの乗員数は多くて30人位ですから、約6分に1台運転するとして、1時間当たりの輸送人数は300人程度に過ぎず、1万人余の通勤輸送に難しさがあったことは容易に推測できます。
 一方、東京府内における自転車の保有台数と人口は昭和5年が53万3761台・540万8678人、昭和10年が86万1295台・636万9919人、人口数をこの台数で割るとそれぞれ1台あたり10.1人、7.4人になります。この当時の交通機関としての自転車の位置は主に自宅から会社工場までのダイレクト通勤に使用され、電車、市電、バスと並ぶ第1次交通機関でした。中仙道を利用する職工員の3分の1、約4200人が自転車を利用したとすると昭和
10年では約567台が必要となります。現在、板橋区が志村坂上駅周辺に設置した無料駐輪場の収容台数が240台ですから、約567台という数字が現在と比較しても大きいかということがわかります。

 

[戦前の日本における自転車専用レーンについて]
 自転車道ということばが法令で最初に登場したのは大正8年12月6日公布の内務省第25号「街路構造令」第3条です。以下条文はすべて現代文に直してあります。この法律は同年公布の「道路法」第31条「道路の構造、維持、修繕及び工事執行方法に関しては命令を以てこれを定める」に基づいて定められたもので、ある一定の規模以上の道路では車道と歩道を分離することや、遊歩道には並木を植栽すること、さらには街路の各構成要素の構造・サイズや用いる材料などについても定めており、当時としては画期的なものでした。
第3条 街路は車道及び歩道に区別すること。但し、1等小路及び2等小路においてはこれを区別しなくてもよい。街路の状況により遊歩道を設けるときは歩道として兼用することができる。広路では必要があるときは高速車道または自転車道を設けること。1等大路でも同じ。
 雑誌「道路の改良」第14巻昭和7年1月号に江守保平が「自転車道の施設を提唱す」を寄稿しています。その中で、横幅が27mの道路の場合と10mの場合について、自転車専用レーンを設けた場合の例を提案しています。27mの場合、中央に路面電車道があり、両脇にそれぞれ5mを2.5mの歩道と1.5mの自転車専用レーンに割き、歩道と自転車専用レーンとの間1mに樹木を植え、車道と自転車専用レーンとの間は15cmの段差を設けています。すなわち自転車専用レーンが車道からも歩道からも分離していることになります(図2)。また、10mの場合は地方道路の場合として、両脇にそれぞれ1mを自転車専用レーンに割き、車道と自転車専用レーンとの間1mの未舗装の間隔を設定しています(図3)。歩行者は自転車専用レーンを通行するとしています。
 図2は昭和13年に自転車専用レーンを設置した中仙道の構成図(写真2)とよく似ています。車道巾がほぼ同じで、中仙道は路面電車がない分、歩道と自転車専用レーンを広く取っていますが、歩道と自転車専用レーンの間に樹木を植え、車道とは段差を設けるなどは同じです。

 
        図2 道路巾27mの場合     図3 道路巾10mの場合

                  (いずれも上図が横から見た図 下図が上から見た図)
                      「道路の改良」第14巻昭和7年1月号より

[中仙道における自転車専用レーンの不思議]
 前出の「道路の改良」昭和7年1月号で江守保平は大正8年に「街路構造令」第3条が公布されたにも関わらず、まだこのような施設が試みられていないと述べていることから、日本における自転車レーンの設置は少なくとも昭和7年以降であることがわかります。
 ここで中仙道における自転車専用レーンについての疑問をまとめました。
①レーンの長さはどのくらいで、いつまで設置されていたのか? 
 昭和15年に撮影された現在の志村1丁目付近といわれる写真(写真3)がありますが、それを見ると擁壁がなく、路面が傾斜しているようには見えないところから、志村坂上より北側の志村3丁目へ向かう写真2とは反対の南側を撮影したと思われます。
 そこには自転車専用レーンがありませんので、専用レーンは志村坂上から北側のみだったのか、それともすでに専用レーンが撤去されてしまったのか。

②効果があったのか?
 当時、自転車は第1次交通機関で、利用想定人数を考慮に入れると専用レーンの設置は効果があるはずです。ところが昭和13年6月に舗装化が完了し、自転車専用レーンが設置されたと同月、板橋区議会に現在の都営地下鉄新板橋付近から中仙道を北上し、現在の志村坂上までの市電区間延長の陳情書が提出されました。また翌年の6月には区から東京市長へ同様の陳情がなされています。これらの陳情には自転車専用レーン設置のことが一切触れられていません。陳情する上であえて触れなかったのでしょうか。
 昭和19年に市電は三田線板橋区役所前駅手前から志村坂上まで延長されています。中仙道を利用する人員の増加に対してバスと自転車だけではもはや対応できなくなったのか、またバス等の自動車の増加に対応するために専用レーンを撤去したのか、あるいは自転車利用者の増加に対して専用レーンの効果が見られなかったのか。
 このように考えると、この自転車専用レーンは非常に短い距離であったのか、あるいは江守保平の提唱を実験的に行うために短期間設置されたものか。昭和13年発行の「警察協会雑誌」5月号で、松井茂が「計画中の新京浜道

写真3 昭和15年に撮影された現在の 志村坂上付近
写真2と街路樹が似ており、近距離の場所と見なせる  (板橋区公衆浴場組合HPより)

路では新たに別に自転車道を設けるとの節もあるが」と述べていることから、当時は自転車専用レーン設置に意欲的な姿勢があったと思われますので、もう少し調査する必要があります。

(参考文献)
警察庁ホームページhttp://www.npa.go.jp/bicycle/index.htm#05 自転車の安全利用の推進
自転車運動綱要 日本自転車連盟編集 昭和13年
1万分一地形図 昭和12年測量発行
東京都市計画事業道路改修第二期計画 昭和4年 都史資料集成第7巻 
昭和13年6月市電区間延長につき板橋区会の陳情書 板橋区史資料編4 板橋区 平成9年
昭和14年6月板橋区会市電延長促進委員会より東京市長への陳情書 板橋区史資料編4 板橋区 平成9年
各種板橋区の歴史書
自轉車の施設を提唱す 江守保平 道路の改良 昭和7年 第14巻第1号
道路交通政策史概観 道路交通問題研究会編 平成14年 

                                          (自転車文化センター 学芸員)
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